後藤 新平 ごとう しんぺい
   

無過不及之和、必自不偏不倚之中出
無過不及(=バランスの取れた)の和は、必ず自から不偏不倚之(=中立公正)の中より出ずる。
南宋の朱熹が著述した「四書」の注釈書の一つ《中庸章句》に、
「中者、不偏不倚、無過不及之名。庸、平常也。(中は、偏ならず倚ならず、過不及無きの名なり。庸は平常なり)」とある。
40.5p×129.5p

安政4年6月4日(1857年7月24日)生〜昭和4年(1929年)4月13日歿
 日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。
 岩手県奥州市水沢区生まれ。名は新平、号を無隠・棲霞と称し、父は水沢藩士で、高野長英の遠縁に当たる。
 幼にして武下節山に漢学を学び、次いで藩校立生館で経史と詩文を修め、18才で須賀川医学校に入り、各地の病院で医師を務めた。明治14年(1881)愛知県病院長兼愛知医学校長となる。16年内務省衛生局に入る。ドイツ留学を経て25年衛生局長に昇進。
 31年児玉源太郎台湾総督により民政局長に抜擢、のち台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名され、植民地経営者であり、都市計画家でもあった。
 36年貴族院議員に勅選。第2次、第3次桂内閣で逓信大臣、鉄道院総裁、関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。外務大臣等を歴任し、シベリア出兵を推進。
 大正9年(1920)東京市第7代市長となる。第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として、大震災後の東京復興計画を立案。ソ連との国交樹立にも関与した。
 ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。
 甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩、義孫に法学者の内山尚三、曾孫に歴史家の鶴見太郎をもつ。
 「新平」の下に、白文の「新平之印」、朱文の「號棲霞」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
http://www.weblio.jp/content/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/
http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html


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